3 私の英語物語

私の英語物語(前編)

1 中学時代

私がはじめて英語というものに出会ったのは、やはり西中学校に入学したときでした。アルファベットが珍しくて、筆記体のアルファベットを書いていると、なんだか外国人になったような気がして、英習字検定などに合格すると、うれしくてたまらなかったのを覚えています。

初めての英語の受け持ちとなった先生は、大学を卒業して初めての英語教員になった三井先生でした。(生涯、英語を通じての恩人になろうとは思いもよりませんでした)先生は、教育法が独特で、印象が強く、今でも思い出すのは、授業中に英語の歌を歌ってくれたり、坂出港の外国人との会話とか、映画館で懐中電灯でテキストを見ながら字幕・画面を見たりする自分の体験談を話してくれたり、ワイシャツの語源を面白く説明してくれたり、思い出がたくさんあります。また、英語をしっかり勉強して、通訳になったら給料は高いし、いろんなところに行っていろんなことを体験できるし、待遇はいいからぜひ勧めるとか言っていたのを思い出します。こちらは初めての英語で興味津々だし、先生は初めての教育担当で熱意の固まりだし、理想的な組み合わせであったと思います。

2年生になって、クラスも先生も入れ替わり、女性の林先生(なぜかモンロー先生と言っていた)になり、どういうわけか英語授業参観があったときにクラスリーダーに指名されて、英語で号令をかけたりしてどぎまぎした経験があります。

3年生では、クラス担任の丸岡先生が英語担当でしたので、親しみやすく、家庭の事情で悩んでいたとき進学問題を親身に指導して下さり、大恩を受けました。(私が防衛大学の夏休みに一度、同級の綾君とご自宅を訪問しましたが、その後間もなくお亡くなりになられました)卒業前の修学旅行はとうとう参加できませんでしたが、母がその代わりにと買ってくれた革表紙の「コンサイス英語辞書」は後々まで宝物となりました。

2 高校時代

丸亀高校では、1年生のクラス担任の毛利先生が英語を指導され、英語教育の合間に精神訓話やご自分が若かりし頃、中国戦線の陸軍中尉時代の話をよくしてくれました。師団司令部の作戦情報主任としての活躍も耳に残っています。

2年生になって、クラス編成が受験本位となり、「高等英文解釈」と「テーブル式英作文」の二本立てでみっちり鍛えられました。この2冊の本は、かなり力を入れて勉強しましたので表紙などぼろぼろになりましたが、今でも大切にラミネートで保護処理して本棚に置いてあります。淡交で毎回おなじみの竹内公平先生はその時の英作文担当で英訳が次々とすらすらと出てきてうらやましかったのが印象的です。高等英文解釈は、長文の例題がたくさん出ていて訳文がついていましたが、はじめて出くわす単語が多く、例のコンサイス英語辞典が、真っ赤になるぐらいアンダーラインを引きまくったのがよかったと思っています。よく先生は覚えた単語の辞書の頁は食べたらいいと言われたものですが、私は食べるのはもったいないと思いました。

3年生では、またクラスも変わり、試験試験の連続?で、英語勉強の内容はどうしたことかあまりよく覚えていません。

3 防衛大学校時代

学校教育としては、英文学なども教材にはありましたが、どちらかと言えば、日常英会話教育に重きを置いていたようでした。外国人講師がフルイングリッシュ授業で盛んに対話を求めていたのが記憶に残っています。また、第二外国語を選択しなければならず、これからは隣国の中国が台頭する時代になると思い中国語を専攻しました。後々この狙いはあたっていて正しい判断だったと思っています。

4 自衛隊勤務時代

(1)本格英語教育に挑戦

 防大卒業後、幹部候補生時代(1年間)を経て、第一線部隊(戦車大隊)に勤務すると、しばらくは英語などには縁が遠い生活となりましたが、かといって英語そのものは捨てがたく、当時ラジオの英会話番組放送があり、テキストを買ってはラジオ英会話を録音し、繰り返し聞いていました。

新出表現の記録ノートが大分たまった頃、調査学校(現在の小平学校)の語学教育入学希望調査があり、手を挙げると運良く入校の運びとなり、職務はそのまま(給料もそのまま)東京の小平にある幹部普通英語課程に入校しました。

普通ならば、仕事の終わった後の疲れた体で少しの時間を高い代価を払って勉強するところ、この学校では、朝から晩まで英語漬け教育で生活させられ、米軍人や家族のネイティブな英語に恵まれて、実践主義の会話訓練をいやと言うほど受けました。朝の朝礼の整列から敬礼まで英語号令で、そのあとの3分間スピーチももちろん英語で担当に指名されるのをビクビクしていたものでした。五時の授業終了後の食事・入浴も自由英語会話の実習で、夜の自習時間も2時間、ブースに入ってモデルテキストテープのリピート練習です。英文読解、文法をはじめ、各種の会話練習、英文タイプライター実習、英文書簡の書き方など多岐にわたりましたが、その時の教育法の一部が頭にこびりついていて(体に染みこんでいて)現在の英会話教室担当(毎週日曜日生涯学習)にそのまま活かされております。

こうして6ヶ月の集中訓練の後、帰隊する電車の中では、周りの人がみんな英語で話をしているように錯覚したのは不思議でした。

(2)英語教官として

それから間もなく、今度は調査学校の教官要員として白羽の矢が当たり、入校学生としてではなく、彼らを指導する教官として赴任することになりました。

学生とは立場が違って、教育するとなれば、教育法から教育内容までおろそかには出来ません。教育指導法の学校長検閲を多数の諸先輩教官の前で受け、ありがたーい終了所見を槍衾のように受け、満身創痍で激励されたものでした。

陸上自衛隊でも、当時から各国へ派遣する大使館要員の着任前英語教育や、米国陸軍の学校に入学する幹部の事前教育や、日米共同演習参加部隊の基幹隊員の英語教育など、普通英語課程以外に種々の教育担当を経験しました。

そして数年後、次は英語教官の職務のままで幹部上級英語課程入校(6ヶ月)の機会を与えられ、さらに英語専門部門の翻訳・通訳・実務文書・渉外・教育法などを学びました。もう英語や英文や外国人を見て恐れることは許されません。実践実務あるのみです。

(3)国外勤務を体験

卒業後は、3ヶ月の米国勤務を命ぜられ、米陸軍の高射学校で行われる自衛隊のミサイル部隊の発射訓練検閲における検閲官通訳として実務体験しました。(日本国内では、演習場が狭くて、ミサイルの実弾を発射する場所がなく、米国まで行って実射訓練するわけです)これはなかなか厳しい任務で、ミサイル部隊も大変ですが、実践通訳任務も大変やり甲斐がありました。訓練日以外の時は、検閲官は周辺の米軍部隊を訪問しますので、行く先々の部隊の様子など予習を重ね、当日は慣れない道路を慣れない車で運転しながらのご案内となり、これもまたよき思い出でもあります。

(4)渉外勤務という重責

帰国してしばらくして、次の辞令が出ました。それは陸上幕僚監部(陸上自衛隊を統括する司令部)の渉外室勤務でした。これは東京都内にある24カ国の外国大使館の武官達の窓口業務という光栄ながら大変厳しい役職でした。

物理的には、小平官舎から六本木の勤務地まで満員の地下鉄・電車・バスを乗り継ぎ片道1時間半の行程を毎日往復しなければならず、(同僚・先輩にはこれが普通)かなりの体力を消耗してしまいます。しかも出勤すれば、電話をとれば英語で、しかも重要な内容ばかりです。慣れない勤務環境でこのストレスに負けてしまい、4月に赴任して、5月には入院となり、1ヶ月間の足踏みをしてしまいました。

それでも、なんとか仕切り直して、業務をこなして、渉外幹部の一人として、3年間勤め上げました。週に1~2回は都内ホテルで外国武官とのパーティがあり、陸幕長はじめ各部長の出席調整や現場での通訳や、部隊訪問を希望する各国武官の訪問調整と同行支援など英語の出番に数限りがありません。毎年1回は全部の武官団(ご夫人同伴で)を東北・中方・西方の順で招待して実情を紹介する企画があり、大イベントでした。この企画から実施まで数ヶ月間、シナリオ作成から現地案内まで担当しました。訪問先での諸会議での着席順や国旗の置き方、宿泊部屋の割り当てなど、当時はソ連時代で、ミグ事件や領海問題など生々しい事件のさ中、国際関係が複雑で大変気を使ったものでした。

おかげさまで、英語という武器を十二分に活用して、大過なく3年間のつとめを果たし、転出するときは、ホット胸をなで下ろすとともに大きな充実感に浸ることが出来ました。

また、東部方面総監部で情報任務の傍ら、渉外勤務したときも、数回の日米共同訓練の機会に恵まれ、演習場での米軍部隊との調整会議や、作戦会議など、生の軍事英語で意思疎通を図り、情報を交換して作戦を支援しました。訓練が終了すれば、双方が相集い、終了祝賀パーティを企画し、飾り気のない自由会話で大いに意気投合したものでした。

(5)もう一度の英語教官

そののち、縁あって市ヶ谷の幹部学校(昔の陸軍大学に相当)にて再び英語教官の命が下り、3年間勤務いたしました。ここは、将来の自衛隊の高級幹部になる要員を養成する機関で優秀な人材が集まっていました。ですから教官よりも階級が高い学生がいることが多かったわけですが、そこは教官として一応敬意を表していただき、勤めを果たすことができました。

ある学生は、卒業後に直ちに渡米する任務が控えており、1ヶ月で何とかしゃべれるようにしてくれと頼まれ、特訓スケジュールでほんとうに何とかなりましたが、今となれば懐しい思い出です。

(市ヶ谷といえば、終戦後の極東軍事裁判所や地下壕大本営司令部、三島由紀夫の決起・自害などで有名で現在は六本木から移転してきた陸上幕僚監部が所在しています。)


 私の英語物語(後編)

5 丸亀市国際交流協会事務局の勤務

自衛隊勤務を定年で退官して、市役所を訪れた際、たまたま前述の中学校時代の英語の先生(三井先生)に出会いました。お互いに突然の奇遇で、それまでの長い物語に花を咲かせました。

三井先生は東中学校の校長先生を退いた後、市に乞われて市国際交流協会事務局で勤務していたのでした。そしてこれもそろそろ退こうという話で、冗談半分に、それなら私が後任でいかがでしょうかと尋ねますと、それもいいなあということになり、正式な諸手続を経て、当分はダブル配置で職務申し送りということになり、3ヶ月間、手を取り足を取って仕事を教えていただきました。私にとっては、英語の出発点からこうして年老いて嘱託勤務までお世話になろうとは、運命の不思議さに感謝しました。その期間は仕事の引き継ぎはもちろん、人生勉強そのものでした。

丸亀市は、姉妹都市活動として、スペインのサンセバスチャン市と交流があり、新しく中国の張家港市と姉妹都市縁組みを結ぼうとしていました。また、市内には千名以上もの在住外国人がいて日本語教育やパーティやイベントなど国際交流が盛んでした。従って、市役所内の各窓口でも外国人向けの業務が多くなり、その対応支援も仕事の一つでした。

 それまでは国際交流協会事務局は市長公室の秘書広報課内に位置していましたが、関係者や外国人窓口としては専用の事務室が必要と見直され、旧図書館跡(現在のシルバーセンター)に移転しました。(現在は生涯学習センターへ移転)

職務の一例を挙げますと、市長への外国人来訪者には訪問交渉・通訳・案内などを行い、姉妹都市活動では相互の訪問、連絡など英文書簡の翻訳・英訳など年間延べ200通、市内の国際交流協会会員との連携(季刊誌の発行、ホームステイの依頼、イベント計画など)市内の在住外国人とのパーティ企画などで、かなりやり甲斐がありました。まさか、自衛隊勤務間に培った英語能力がそのまま活かされるとは、予測できないことでした。

 全国的に経済状態が厳しさを加え、市財政も節約ムードとなり、嘱託配置の勤務が削減されるまで約3年半、退職自衛官としては希有な職務を経験しました。

6 英会話教室の開講

 約5年間の民間会社(損保の自動車保険)高松通勤を経てこれも定年となり、シルバー年齢となり、シルバーセンターで入会申し込み説明会受講に行ったところ、センター長に呼び止められ、ちょうどいいところへ来た、英語を使って何かやってくれという要請でした。センター長は私が国際交流協会時代の協会会員で、外国人受け入れのホームステイなどで大変お世話になった大山さんという方でした。

 本町の旧百十四銀行建物を市が借り上げて、シルバーセンターが運営して寂れゆく市街地を少しでも活性化しようという企画がありました。

そこで、最初は子供英会話でいこうということになり、時節柄、「親子で英語クリスマス」を企画し、なんとか外国人講師を呼んでゲームや歌など楽しく過ごしました。
(準備などかなり難行)

 次に考案したのが、毎週日曜日のシルバー英会話教室で、これに人気が出て、常に出席生徒数20名前後をキープし、今年で4年目となり、目的に叶い、市街地活性化に少しは協力し得たものと思います。

 

シルバー英会話教室 「継続は力なり」  

前回紹介しました3月からスタートの「シルバー英会話教室」は10ヶ月目に入り、なお継続中。(現在も14~5名出席をキープ)継続しています。  講座開講にあたり、生徒のみなさんへ要望したのが「継続は力なり」でした。これは実は、自分への激励であったようにも思います。何事も、高邁な目標と動機をもって、いろいろ始めますが、継続するのが難しい。しかし止めるのはいつでも止められると考えれば気が楽である。石の上にも3年とかいうので、まず3年を目標にやってみて、次を考える。人生は二度ないから、真剣勝負というところでしょうか。  2時間担当の英会話教室も、その内容を如何に構成するかが最大のポイントである。 学習効果があって、かつ興味がもてるように、教材の選定と、教育技法を練らなくてはいけない。生徒のみなさんがシルバーということは案外なじみやすくて好条件です。  最初の1ヶ月間の導入期間には、「60才からの英会話」を、4月からは「サンフランシスコ旅行の英会話」を題材として、ビデオ視聴と実習を中心に、体に染み込ませる学習を追求しています。  まず、最初の5~10分間は、趣味の写真の1週間ベスト画像をA4版にプリントして額入れ掲示し、撮影の背景など簡単な英語で説明する。ヒアリングも兼ね、みんな興味しんしんの空気が伝わってくる。質問も英語で、たどたどしいやりとりもあり好評。毎回、今日はどんな被写体が飛び出すかを楽しみにしているようです。  次の約5~10分間は、英語学習全般(外国人のゼスチャ・外来語・TV英会話番組・・・)または時局ハイライト(オリンピック・サミット会議・メジャーリーグ・サブプライムローン・・・)などをホワイトボードに記載しておき、説明して情報を聞く。これもまた、大きな関心・反響が帰ってくる。毎週一つの話題を探し出すのはかなり難しいと思ったが、やってみると、過去の経験やTV・新聞などから案外出てくるものだと感じました。  いよいよ本番、本日のメインテーマ対話スキットをビデオテープで視聴する。幸い2回どおりがワンセットになっているので、印象づけやすい。全体の会話の流れと文脈が分かるので、文章の意味が読み取れる。口の動きやレスポンス・抑揚などを感じながら、できるだけ文法にこだわらず、お気に入り決まり文句をそのままの形で見つけるようにする。  ビデオの後は、テキストの一文ずつ用語と表現を説明し、発音・イントネーションを注意してリピート練習。自分の声を自分の耳で聞かせるので数回反復。反復は全員反復とグループ反復を取り混ぜる。指定された重要センテンスは、用語の代入練習により応用能力を養う。これで前半の50分が終わる。  ちょうどその頃には、階下のレストランに注文した熱いコーヒーが届いているので、コーヒーブレイク。セルフサービスでお互いが給仕する。 時々、生徒の手作りケーキや旅行土産が添えられ、世間話に花が咲き、ワイワイがやがやと笑い声が響く。生徒たちにとっては、また、これがいいらしい。 楽しい自由会話を遮るのは後ろ髪引かれるが、後段は実習主体。もう一度ビデオを鑑賞。場面練習でしっかり会話の雰囲気と話の流れを再確認してもらって、対話練習。まず、私と生徒全員でA・B役割練習。そしてB・A交代。次は第1グループと第2グループに分け、グループ間で A・B役割練習。そしてB・A交代。  いよいよ個人対話練習。生徒の氏名カードを繰って、公平平等、無作為でカードを開き、練習ペアを指名する。自分は誰と当たるか、ハラハラドキドキ、男女を問わず、ペアを作る。他のペアに負けないように大きな声でA・B役割練習開始。ひと通り終われば、B・A交代。相手に呼びかけて、反応を見ながら何回でも繰り返し練習。はじめは恥ずかしそうにしているが、慣れてくると、みんな喜んでやっている。約10分間後、カードでローテーション、相手交代。2回目は、できるだけテキストを見ないで練習、忘れたらちょっと見るというやり方である。繰り返すうちに半分ぐらいは暗誦できるようになる。  そこで、本日のハイライト。カードまたはじゃんけんで代表ペア2~3組を選ぶ。みんなの前に出てスキットの模範演技。テキストを見てもよし、見なくてもよし、見ない方がいい。終われば、必ずいいところを褒めて、必要に応じて改めるべき発音・イントネーション・フレーズの区切り方などを修正する。 ラストペアにはアドリブも入れさせる。面白い妙案や展開となり、ヤンヤの声援で教室内が湧く。  2時間はあっという間に過ぎ、居眠りする暇などない。みんなでカムカム英語の歌を歌って終了。英会話の習得はもちろん、家でいるより面白いから来るというのも本音らしい。  レッスン構成もさることながら、教材の選定が生徒の興味をひく大きなポイントとなる。もちろん、役に立つ英会話に必須の決まり文句がたくさん含まれるかとか面白い内容かとか、対話練習に適するかとかいろいろな条件を満たしていなければいけない。やさしすぎても力が入りにくいし、かといって上級過ぎてもさじを投げてしまう。出来るだけ旅行会話の場面をとらえて、ハワイ旅行、カリフォルニア縦断、ハワイ滞在生活、外国人のホームステイなどをテーマとしてきた。また、教材の購入価格や入手方法も悩まされるところではある。  ところが、今年の4月になって青天の霹靂でスペース114が青物市場を運営することになり、日曜日閉店しシルバー英会話教室は閉講となってしまいました。それでも生徒さん達は何とかクラスを継続して欲しいとの要請があり、検討を重ねた末に、生涯学習開館で市の生涯学習のクラブとして、新しく「スキット英会話クラブ」を設立し、再興しました。クラス環境としては元のスペース114に比べると雲泥の差で、教室内のスペース・照明・冷暖房・机椅子・エレベーターなどや駐車場も心配することなく、市街地活性化は断念したものの、市生涯学習という町づくりには貢献するものであり、生徒さん達は喜んでくれております。元はといえば、みんなこの年になって生涯学習として、又は趣味として、仲間作りとして集まった方々ばかりですから、英会話学習本来の目的からもこれでよかったのではないかと内心納得しています。将来のクラスためにもシルバーとかいったイメージを払拭して、名は体を表すものに「スキッ」と(これはダジャレで、寸劇英会話の実習という意味で命名)衣更えしてスタートから出直すことができ、突然の異変には今更ながら感謝しております。


 ところが、平成23年の4月になって青天の霹靂でスペース114が青物市場を運営することになり、日曜日閉店しシルバー英会話教室は閉講となってしまいました。それでも生徒さん達は何とかクラスを継続して欲しいとの要請があり、検討を重ねた末に、生涯学習開館で市の生涯学習のクラブとして、新しく「スキット英会話クラブ」を設立し、再興しました。クラス環境としては元のスペース114に比べると雲泥の差で、教室内のスペース・照明・冷暖房・机椅子・エレベーターなどや駐車場も心配することなく、市街地活性化は断念したものの、市生涯学習という町づくりには貢献するものであり、生徒さん達は喜んでくれております。元はといえば、みんなこの年になって生涯の学習として、又は趣味として、仲間作りとして集まった方々ばかりですから、英会話学習本来の目的からもこれでよかったのではないかと内心納得しています。将来のクラスためにもシルバーとかいったイメージを払拭して、名は体を表すものに「スキッ」と(これはダジャレで、「寸劇英会話」の実習という意味で命名)衣更えしてスタートから出直すことができ、突然の異変には今更ながら感謝しております。

7 実力の涵養

仮そめにも英語(英会話)の先生と呼ばれるものとしては、平素からレッスン準備の他に何もしないわけにはいけません。それなりにレベルダウンを補い、レベルアップを少なくとも目指す努力が必要であると自覚しています。

私が平素英語力錬成として選ぶ選択肢は二つあります。一つは、毎朝のNHKテレビ英会話番組を視聴することであり、もう一つは、ジャパンタイムスの週刊STを購読し、英作文欄に投稿することです。

英語4分野のうち「聞く」「話す」は、10数年前までは、ラジオ英会話番組愛好者として、録音したテープを車に入れて、通勤・買い物・行楽など寸暇を惜しんで反復聴取していましたが、やはり、視聴覚によるテレビの方が臨場感があり、内容も充実していてよく印象に残るので、いつしかテレビ番組に切り換えました。

現在は、朝六時から20分間月曜から木曜まで、「トラッドジャパン」「英語でしゃべらナイト」「有名人のインタビュー」「ニュースで英会話」が毎週繰り返し放映されるので、これを試聴しながら録画して、もう一度視聴し直すことにしています。すると2回目の方が格段によく分かり、得をしたような気分になります。難易度は少々高くても、できるだけ分かるところにポイントを置き聞き流すようにすると、全体が分かる。反対に、分からないところばかり意識してその都度引っかかっていると引っかかっているうちは次の音が耳に入らず、つながりが途絶えて、これを繰り返すと全体が分からなくなってしまう。英語は「分かる分かる英語」でないといけない。「分からない分からない英語」では苦しさと欲求不満だけが残って、いやになり止めてしまうと思います。(生徒さんにもいつも強調している)

もう一つのテーマはジャパンタイムスの「週刊ST」です。これは「読み」「書き」の分野を鍛えるものですが、日刊の英字新聞を購読しても情報量が多すぎて、消化不良となり不満足かつ不経済。そこで週刊であれば、一週間の余裕があり、このSTはスチューデントタイムスなので、学生向けに編集されており、国内外のニュース、随想、作文教室、英語俳句、クロスワードパズル、英語マンガなどで、記事も全文和訳付きや脚注付きがほとんどで、辞書なしで読める。もともと高松通勤の時に駅売店で購入し、一週間がかりで好きなところだけ読むというように始めたもので内容も結構珍しいものが多く、退屈しない。(しかしマンガでもなかなか難しい。)買い物に行って、車で待つときなど、格好の材料であると思います。そして、毎回「英作文教室」という記事欄があり、毎回短文の英訳が出題されます。回答は、メールで投稿できるのできわめて手軽です。だからといって、直感だけに頼り熟考しないで回答すると不合格。合格というのは、2~3週間遅れで解説と模範例文が掲載され、優秀者氏名が発表される。(500数十名のうち約100名)大体3回に1回ぐらい自分の氏名が掲載されるが、それがうれしい。そして毎回チャレンジするという習慣になります。だいたい、一応作文が出来ても、一晩おいて、改めて見るとああこの方がいいという点があり、もう一晩おけばなお安心という気持ちになります。以前は大先輩とこれを競っていたけれども、今はご高齢者となり、競えなくなってしまい少し淋しい気がします。とにかく、1週間に300円足らずで十分楽しんで元は取れますから結構なものです。皆さんにも自信を持ってお勧めします。
以上、自分の経歴と現在の立場から、いつ何時、通訳とか翻訳とか実務を頼まれても一応は応じられるというプライド保持ため、日々現役のつもりでがんばっております。